クラシックの夏フェス、終わる

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今年は、会期始めの公演と、昨日のこの街の最後の公演の野外だけ聴きにいけた。

昨年まで永きにわたりVフィルのコンサートマスターだった、アカデミー教授は、
今年はフィルとは別スケジュールになり、最後まで残って下さった。
コンサートマスターになったとき、まだ若冠20歳だったんですって!

お陰で昨日の最終日にもう一度、演奏を聴くことができたの。感激。

アカデミー生達との弦楽五重奏、演奏が終わって一人一人と握手を交わし、肩を抱く姿に思わずジワッと涙が滲んだ。(感動…)

ありがとうございます。来年も必ず必ず、いらして指導して下さい。
そして、ご自身の素晴らしい演奏も私たちに聴かせて下さいね。


奇しくも、今回のフェスの会期が日本デビューとなる少年が、
アカデミーオーケストラと競演した。


老練と、初々しさが、別の演目ではあったけれども、
同じ日の舞台の空間に響いた。


天才、と言うしかない少年の、若さ特有のしなやかさに引き込まれる。
前へ前へ、吸収しては発信していく時期だ。
あぁ、彼がこの時期に次々と機会に巡りあい、
努力を重ねて自分のものにしていく環境に、恵まれていることに感謝します。


教授の演奏には、無駄な装飾が(多分)ない。
ふっと、星の王子さまの作者のことばが浮かぶ。
(偶然にも今日は、彼の飛行機が消息をたった日…)

完璧とは、もうこれ以上機能を削ることができないまでに、余計なものを削ぎおとした状態…
確か、何かの技術書で読んで深く頷いた。


教授の演奏は、この全身を委ねて聴くことができる。
委ねるのだけれど、その空間で自分で自由に心地よく、膨らませて聴いている。

膨らませる空間を、ちゃんととってくれている。寧ろとるために、自らを過不足なく削ぎ落としている。
(これって、仏教の「空」にも通じるよね!)

変な喩えだけれど、快適に作業を進められる、APIフレームワークに似てる。
安心して委ねて、心地よく進んでいける。


高揚や感動を押しつけるように与えるのではなくて、
私たちの日々の中に埋没しているものを、指し示して、
教授は、さぁこっちだよ、と案内して呼び醒ましてくれる。
強要するでもなく、導いてくれる。
(気付き、とか、悟る分岐点に案内される…のかな)


私たちは、アカデミー生ではない、ただの聴衆に過ぎないけれど、
今年は三回、心地よく演奏を聴く機会にめぐまれて、
あ、教授はわたしにとって今日、メンターなんだなぁ…と。
そう、わたしが音楽を学ぶものではなくても、である。


そうそう、教授はだけど、愉しくお茶目な方です、多分。
本当に、来年も必ず必ず、いらして下さいね。
楽しみにしています。