善知識、善知識魔のこと(その4)

 
ひとつ前の記事では、修行者の善知識に対する執着が魔で、
信と執着は、知ってのとおり全く別のもの。


直ぐに思い出せるのは、法然さんに対する親鸞さんの信。

例え法然上人に騙されて、自分が地獄に堕ちることになったとしても、まったく構わない、と。
この善知識に全幅の信頼をおいて、わたしは悦びをもってついていきます、と。

この時の親鸞さんは、法然さんを盲信(よい意味で…)している。
毛ほども疑いを持たずに、善友と善知識の関係にあり、
そこには、善知識魔の影は痕跡すらない。


同じ善知識に師事していても、ある修行者は善知識魔に足を捕られ、別の修行者は法悦のなかにいることがある。
この違いはなんだろう。

それはたった一点、心が捕らわれているかどうかだと思う。
捕らわれれば、本人は偽りの法悦に堕ちる。

「捕らわれている」の境界はなんだろう。
同じ善知識の教えに、修行者が互いに同感であることだろうか?

違う。
善知識魔に堕ちる修行者は、自分以外の人間にも、
自分と同じようにその善知識に熱狂することが当然としている。

熱狂できない者総てを大いに蔑む権利、
批判する者を罰する権利が自分にはあるのだ、と考えている。
罰して消し去ってしまうことが、その善知識への信奉だと信じきっている。

それを煽る仲間の修行者(法蝋の古い者を含めて)のために、
善知識魔に堕ちる修行者がいるのを、
善知識は何故放置しているのだろうか。


あるいは、その善知識は今はこの世の人ではないかもしれない。
だから、放置しかできないのだろうか?

だとしたら、その善知識の素晴らしい知慧は絶えてしまっているとしか言い様がない。
他の命を犠牲にしてでも、自分は法悦にひたりたい、
善知識を信奉しない者は総て消し去って、善知識に誉めてもらいたい、
そして英雄視されたいとのぞんでいる修行者は、善友でもなんでもない。