オラクルカードの「清い心」から、百丈野狐へもつながる。

 
以前にも書いた筈だけど、再度お付き合いください。百丈野狐は、禅話の1つ。

百丈禅師の法話に熱心に通ってくる男がいる。
実は、野狐が人間に化けて(確かに、狐のまんま座ってたんじゃ目立っちゃうわなぁ…うんうん)、
自分がかつて禅僧であった、はるか昔の過去世に犯した過った発言の、正しい答えを探してるんですね。


遠い過去世に修行をつんだ男は、
「因果応報と言いますが、修行をつむと、それまでに犯した因果(因縁?)はどうなるのですか?」と問われ、
「不落因果」と自信をもって答えます。因果に落ちない、と。
きちんと修行をつんだら、チャラってことらしいです。


その結果、野狐のまま 500回は転生しないと人間になれないことになってしまったと、禅師に語ります。


つまり「不落因果」が間違いだとわかりましたが、真実の答えがわかりません。
どうか禅師、わたくしにお教えください、お願い致します、と。

「不眛因果」と、百丈禅師は答えます。
因果はくらまさない、と。

以下は、狐くんの隣に一緒に座って、
百丈禅師の解説(?)をわたしの心で聴いています。
正しくないかもしれないけど、これが今のわたしのレベル。

わたしにはこう聴こえました。

因果かぁ…それは、別に修行をつんだからといって変わらんなぁ。

ただ、修行をつんでいけば、「因果応報」に振り回されることはなくなる、違うかね?

悪しき因縁で辛い報いにあっても、修行をつんでいない者のように、負の感情をもつことがないじゃろう?
あぁ、あの報いかもしれない…と回顧することはあっても、次の瞬間にはもう消える。
何の負の感情も残さない、そうではないかな?

善き因縁をつむときに、いちいち善き報いのことなど、片鱗も考えない、何の期待も浮かばなくなるのぉ。

善き報いに出会えば、どの因縁だったかなどといちいち詮索もせん、
ただただ、心底有難く嬉しかろう?
この喜びが、また自然と善き因縁をつむように導いてくれるようじゃなぁ…
わたしはそう思っているが、どうかな?

因果は相変わらず巡るが、全くそれに振り回されなくなるのではないか?

あとはな、自分の心によぉくたずねてみることじゃ。
さぁ、やってごらん、心を浄めてな…心を鎮めてな…


ありゃ~?狐くん、歓びのあまり尻尾が見えちゃってますよぉ!
ま、辺りには他に誰もいないから、いいか。