「大麦小麦二升五合」・・・「応無所住而生其心」

 
「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」 まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし

無念無想。
道元さんは、 「水鳥の行くも帰るも跡絶えて されども道は忘れざりけり」 と解説してるとか・・・

平常心是道とは、禅の言葉ですが、
「柳生兵法家伝書」だったか、「五輪書」だったか、
気負わず、常の心で、物事をスラリと片付けられる人を、名人・達人というというのがありました。

見るからにすごそうな人が、名人・達人ではないんですね。



ご存知の方も、いらっしゃると思いますが、
これを、「大麦小麦二升五合」と聞き違えてはいるんだけど、
一心に唱えて、病気をなおしてあげたりできるお婆さんがいたそうです。

だけど、和尚さんが聞きとがめて、正しい「応無所住而生其心」を教えた。
すると、お婆さんが「応無所住而生其心」を唱えても、もう効き目はなかった。


単に、「言葉(発音)」が力を持ってたわけではないんですね。
これを唱えたら、今、目の当たりにしている人の苦しみが癒されるんだという、
確信のもとに、一心不乱に唱えられる言葉にこそ、エネルギーがこもってるんですね。

だから、お婆さんの心の確信が揺らいでしまったら、
たとえ正しい(正確な)言葉であっても、効力は発揮されなくなってしまった。



「無所住」は、留まらないという意味です。
留まらない心とは、執着しない心を言います。
「飄々」って感じかな。

でも、確信と執着って、微妙に重なるところがありますよね。
確信を拠り所にしてしまったら、執着につながりますよね。

「裏切られた」って思うことがあったら、それは自分の執着だったとして、捨ててしまいたい。
そう思ってるんですけど、なかなか引きずってしまいますね。



あ~、「柳生兵法家伝書」を、また読んでみるかな~。