世界中の火薬を用いた兵器が不要になり、その火薬を全部集めて、美しい花火を世界中で楽しむ日がくる事を!

 
花火の季節になった。
そして、毎年打ち上げ花火を遠くから眺めながら、そう思う。

今、この国にいる私たちは、火薬の恩恵として、夜空に広がる大輪の花火を楽しめる。

何度も書いてきたことだけど、これを楽しめる私たちは、本当に恵まれている。

爆発音は、打ち上げ花火しか知らず、
火薬(と色々な薬品と)で、あんなにきれいな、消え去る芸術を眺めている。
消え去る芸術は、ある意味では非常に贅沢な作品だ。


爆撃や銃撃に怯える日々を送る人たちに、
この国の美しい花火を楽しんで貰いたい。

争うために火薬を使うのではなく、みんなの感動や笑顔のために、使って欲しいと願っている。


昨日、平積みの本で「それでもわたしは憎まない」(ちょっと違ってるかも…)と。
最愛の三人の娘さんが、パレスチナ紛争の犠牲者となってしまった。
けれど著者は報復を心に抱かない。
どうぞ、我が娘たちが最後の犠牲者でありますように、と願っている。


神の名を語って、侵略や報復を行うことが、
本当に「神の意思」に沿っているのだろうか。

そして、自分たちを中心に考えて行った報復が、
無差別だったり、自分たちが考えているカテゴリ外(あるいは特定のカテゴリ)の人、という理由であれば、
更なる報復の応酬になるのだと、なぜ気がつかないのだろう。


先日、偶然に手にとった本で驚愕の情報を見せつけられた。

正しく読もうとするならば、「目には目を」は、
対等な報復というような意味では、全くないのだと。
もし相手の目を害(そこな)ってしまうようなことがあったら、
その時は、自らの目を以て償いなさい、
という、報復とは正反対の教えが書かれているのだと。


償わなくたっていい、償わなければならないことをしなければいいだけだ。
誰しもその命は、それぞれに信仰する神は異なったとしても、
最低限、神に祝福されて(そして一緒に)この世に送り出してもらった。
その人の命と同様に、他の人たちの命も祝福されてやってきた。

他の命を害うことは、その命と共にこの世に送り出された神への冒涜であり、
手を下した者の信仰する神への冒涜であり、
指令した者の信仰する神への冒涜なのに。