一日為さざれば、一日食らわず…(その1)

 
「一日為さざれば…」は、「働かざるもの、食うべからず」という戒めとは、全く逆の立場。


老師が高齢にも拘らず、毎日の作務をやめようとしない。
弟子たちが、そのようなことは私達がいたします、と言っても、
年老いた僧は、黙々と毎日作務を欠かさない。

思いあまって、弟子たちは老師の作務の道具を、そっと隠してしまった。
すると、老師は全く食事をとらなくなってしまった。
弟子たちが食べるよう懇願すると、
「作務はわたしの役目。これが果たせないのに、どうして食事をいただくことができようか」
そう、老師は応えた。



陛下が、譲位の意向をお持ちとのいうNEWS。

失礼な言い方と思うが、
あぁ、本当に生真面目でいらっしゃるのだ、と。


象徴としての天皇と位置づけられ、日々公務につとめられている。

けれど、陛下が毎日つとめられていることは、それだけではない。
この国のすべての民の幸せを、一日も休むことなく祈念している。

敢えて、祈念してくださっている、とは書かない。
この国の民の幸せを、身も心も捧げて祈念するのは、
皇室典範などの成立より、はるか昔からの天皇のお役目。


国の繁栄があって、国民の幸せがあるのではない。

国民一人一人が、日々健やかに、満ち足りて(決して贅沢を意味しない)、
元気に朝起て、昼は活き活きと活動し、心安らかに眠りにつけること。
その向こうに、犠牲を伴わぬ真の国の繁栄がある。


そんなの無理無理!という声が聞こえてくる。
何らかの犠牲の上にしか、国の繁栄はあり得ない、と。

実際、大半の国民を犠牲にしての繁栄を、政府と大企業は目指し、
失敗すれば、それをさらに犠牲になった国民に押し付けてくる。


さきの昭和帝は、人間天皇を宣言されてからは、
戦前戦中の、国の勝利とそれに伴なう国の繁栄の祈念から、解放され、
日々全身全霊で、国民の幸せを祈念なさったと思う。
結果が、あの復興であり、右肩上がりの繁栄につながった。

全身全霊の祈念とは、何も怪しい祈祷師のように、汗水にまみれて祈ることだけを意味しない。
心を澄ませ、丁寧に丁寧に、自分のことは片鱗も思わずに、祈りきる。


四季折々の祭事神事も、陛下のお身体のご負担を考えれば、
幾つかを略式にせざるを得ない。

祭主たる陛下は、それを何よりも心苦しく思われておられるのではないか。

(続く)