印象的な1日だった…(9/17、その2)

 
監督のシンクロの話を、先に出してしまったけれど、
上映の早いうちから、わたしには、入場前のウキウキというか、期待ワクワク、の理由が解き明かされていった。

能面「阿古父尉」の復刻のきっかけとして、梅原猛の記事が紹介された。
今は好好爺のような、穏やかな表情で写真におさまっているが、
わたしにとっては、今も、「隠された十字架」や「塔」で、
学会の異端とされていたころに、書籍で紹介された精悍なイメージが強い。

それは、その本を高校の図書室で借りて、夢中になって読んだ、
瑞々しい感性の自分をおもいおこさせてくれた。
というより、多感な高校生の感性にもどって、その先を観ることができたことは、
わたしにとっては、この上なく幸運なことだった。


今は、3D4Dで受動的に映画館で体感を楽しむことができる。

でも今回は、自分の現世、過去世、もしかしたら来世も含めて、
すべての記憶がスクリーンを前にした、わたしの感覚に蘇ったと思う。

スクリーンから、樹々を渡った風が、薫りを含んで吹きつけてくる。
伐り倒された樹から、フレッシュな木材の匂いが立ち上る。
一緒に、湿った土の匂いまで流れてくる。

ノミをうちこむ、鎚の反動を腕に感じる。
彫刻刀が面を削る感触が掌に蘇り、腕の筋肉がわずかに盛り上がる。

神事のピンと張りつめた空気、わたしはその空気を、
肌の表面に強く感じ、静かに深く呼吸していた。


幻覚だと、思い込みだと笑うのは、各自の勝手だし自由だ。

だって、あなたはその時、そこにいなかったし、
いなかったのだから、感じることもなかった。

「そこ」とは、その時の上映会のホールであると同時に、
撮影されたその時の、撮影されたその場所だ。
そして、わたしが今生より前に、かつて存在していた時と場所…
あるいは、わたしがこの先に新しく命を得た時に、訪ねてゆく場所かもしれない。

「そこ」にいること自体が、シンクロなのだと、あとでわかることになる。