法華経のなかの観音経と、嘘と方便…

 
華厳経の膨大さは、既によく知られている。

実際、かなりの量の経典を集めたものであるのは確かで、
鎌田茂雄さんの、講談社学術文庫の一冊を読んだときも、
なんだかもう、よくわからないんだけど、
ビルシャナ仏のスケールといったら、既に桁外れなんだし、
これでいいのだ!…
って、バカボンのパパ状態で、一回目は本を閉じた。


法華経は、どうだろう。
正直なところ、その一部の観音経しか、深い馴染みはない。

だけど、彼の観音力を念ずればと、その利益(りやく)を延々と繰り返していると、
如何に素晴らしい結果が並べたてられても、正直いって、重すぎて疲れてしまう。


別に観音さまは、嫌いじゃない。大好きです。

ただ、わたしとしては、内在神的な存在。
ずっと前に、何回かここに書いているけど、

観音さまは、わたしの中にいる。

だれのために?
この広い世界中の、わたし以外のすべての人のために。

わたしのための観音さまは、どこに?
大丈夫、わたし以外のすべてのひとの中に。


すがりつくより、おまかせすればいい。
ほんとは、その時、一緒に歩いてくれている。
子供には子供の姿で、子供にわかる言葉で諭してくれる。
老人には老人の姿で、老人が納得するように話してくれる。

その時の観音さまは、出会ったひと、1人ひとりの中にいる。


観音さまは、人を正しい方向に導くためにだけ、
時に、真実に反したことを伝えることがある。

それを「嘘も方便」という。
その人を、間違った方向にゆかせないために、
我が身に罪(嘘をつく)をかぶってまでも、導いてくださるんですね。


そういう目的に当てはまらない嘘は、
どんな大義名分を並べ立てようが、嘘をついた以外のなにものでもない。

相手のためにならないものは、
例え軽微だろうが、単なる自己都合の嘘でしかない。



法華経は、皆で一緒に幸せになろうよ、といっているのだと教えてもらった。
これを信じなければ、不幸になるなんて、言ってないと。
そうじゃなくて、皆で一緒に幸せになるのが、本当の幸せなんだと。

ここまで教えてもらって、宮沢賢治のあのストイックなまでの理想が、少しわかった。



その後、法華経を拠り所とするとある学会の信者の方が
「法華信者以外は、皆死んで地獄におちればいいんだ」
と言い放ったのを、異なる場所、異なる人、異なる時に聞いたとき、
この人って全然、法華経を理解してない、
この人、一体なにを信仰してるつもり?と、呆然とした。

法華経が高らかに掲げた理想と、なんか対極にいるみたい。

まぁ、この方々が、非常に特別なんだと信じたい。
実際、皆さんは穏やかに暮らしていらっしゃるし。


法華経を日々の拠り所として生きている皆さまに限らず、
正しい「嘘も方便」だけを、実践していただきたい。

方便を、自己、自団体のためにつかうのは、
法華経の掲げた気高い理念に反することだと、よくよくご存知だと信じたいです。