「破地獄偈」の夢のこと・・・その2

 
というわけで、その夢をみて泣いちゃった次の日に、
「唯心偈」を再度お勉強いたしました。
といっても、今でも完全にはわかってないんですけどね・・・


「心」が、目に映って、存在していると思いこんでいる、すべてのものを作り出しているんです。




だからといって、てんで勝手に各人の「心」が「仏」を作っていいわけじゃない。

だけど、「仏」に出会おうとするだけの準備ができている「心」だけが、
本来の姿の「仏」と出会うことができる。
と、まるるんは解釈しています。

仏典の専門家(僧職の方も含めて)には、笑われちゃうような解釈かもしれませんが・・・




「心」と「気持ち」は違うけど、でも「気の持ちよう」、「心の持ちよう」なんですよ、きっと。
同じシーンにあっても、「心の持ちよう」によって、違って受け止めることができる。



地獄と極楽には、実は同じものがある、という話の記事を、以前にも書いたようにおもいます。
ご馳走のいっぱい並んだまあるいテーブルの周りに、座らせられるんですね。
ただ、自分自身の口には運べない、長~い箸(もしくはスプーン)を持たされるんですよ。

さて、極楽組のテーブルでは、
「あら~?、自分で食べるのは難しいけど・・・ おや?、お向かいのあなたのお口にはちょうど届きますね~」って
お互いに「あ~ん」して、食べさせてあげられるんですね。
もちろん「どれがお好きですか?」って、リクエストにも余裕で応じてあげられるんです。
「ありがとうございます」と「あ、おいしいですよ、これ!!」が飛び交うテーブルなんですね。


でも、地獄組のテーブルは悲惨で、自分で食べようとしてボロボロ床に落とすし、
テンで勝手に長い箸がぶつかるから、お互いに罵り合ってるし、目の前にご馳走があるのに飢えるばかりです。


極楽テーブルと地獄テーブルは、
実は別の世界にあるんじゃなくて、同じ場所に隣同士でならんでるかもしれないですよね。



「心」を極楽モードに転ずることができた人から、破地獄できるんでしょうね。

何も、地獄から脱走するとか、極楽に行くことを許されるとかではないと思うんです。
自分が地獄だと思っていたその場所を動くことなく、そこは極楽でもあったのだと。


極楽モードの「心」が、出会うべき「仏」に出会えるように、
地獄モードの「心」は、出会うべき「鬼」に出会ってしまうんですね。
「鬼」に出会う「心」を自らが転じない限り、「仏」には出会えないんだ、
外からどんなに「供養」しても、あなた自身が「心」を「仏」に出会えるように転じなければならないんだよ、と。



幸か不幸か、ここまでわかったんだけど、それ以来「破地獄」についてお話してあげられる夢はみてません。
なので、あの腕たちが、手ぶらなんだけど、静かに沈んでいく光景を見ることもできません。
お盆だし・・・ 今晩、みるかな~?

あの夢は、私自身の「心」が見させた夢だったのかな~?
私自身の「心」が、きっかけを望んで見させたのかな~?