観音の同時を、目の当たりにする。(結論に辿り着く)

 
やがてバスがやってきて、先生が「ごめんね、すごく遅くなって…あら、お母さんは?」

三人は車内に浚いこまれて、バスは走り去り、
爺一人が、歩道に取り残された。


15分もしなかったのに、あの三人の話は大きく拡がっていた。
もし親がいたら、あれ程に展開しなかったはずだ。
話を遮られ、からかわれるか、或いは、自分の子供でなければ、妙なおだてが差し込まれる。


だが、子供たちはたどたどしくはあっても、あんなに豊かに自分の感情を表した。

からかいや、おだてに邪魔されず、
どうしたいかという、目標まではっきりと表すことができていた。


観音の同時とは、幼児には幼児の姿で現れ幼児の言葉で導く、
年寄りに対しても同じ、自在にレベル(高低というわけでは決してない)を切り換えて、さりげなく力になる。


あの三人は、互いが観音の同時だった。それを目の当たりにさせてもらった。

一人一人の中の観音さんは、自分以外の全てのために…
あぁ、まさしくこの事、独り頷く。


お父さんの読みきかせ、小さな指先で揃えたサンドイッチ…

あの三人に素晴らしい未来を、そう願わずにはいられない、爺だった。