情けは人のためならず…わたしはこう思うんだ

 
情けを他人にかけることは、かけた相手の利益のため(だけ)ではなく、
それは、いずれは巡りめぐって我が身にも利益となること、
つまりは、自分自身のためなのだ、と


わたしは、この解説(?)を見かけるたびに、心のなかで反発してる。

いやいや、これも一種の「方便としての策略」による解説が、
まず、世の中に流布されているんだろうか…



わたしは、こんな風に解釈してる。


情けはね、「誰かのため」にかけるものではないんだよ。

情けをかけるには、
まず心のエネルギーがなくてはできないよね?
行動を起こすなら、体のエネルギーが必要だよね?
物質が持つ価値やエネルギーを、相手に差し出して解決する場合もあるよね?

君は、それらのエネルギーを他の人と、わかちあおうとしているんだよね?

ありがとう、それはとても尊いことだ。
君が持っているエネルギーは、君一人のためのものではないことに、気がついてくれているんだね?

全てのエネルギーを持ち合わせていなくたって、
今持ち合わせている小さいエネルギーでも、
今、困り事に翻弄されている人を僅かではあっても、支えてあげられる。

本当に素敵だ、気がついてくれてありがとう。
そして、そのエネルギーその力は、他の人のために使わなければならない…なんてそんなことはない。

大丈夫だよ、君自身が必要な時には、ちゃんと自分に使うんだよ、いいね?
そして、きっと君に手を伸べてくれる誰かが現れるはずだよ。

別に、その人は君が以前に手を伸べたひとではないかもしれない。
構わないよね?その時その時に相応しい人が、君の前に現れるだけなんだよ。


その時に、君に手を伸べることができる人が、当たり前のようにそうしてくれるだけなんだ。
だから、決して遠慮なんかしないで。

ただ心からの喜びと感謝で、そのエネルギーを受け取っていいんだよ!


このエネルギーの循環はね、ギブアンドテイクで成り立ってる訳じゃない。
結果として、宇宙規模では確かに巡っているけれど、
持てるものが、他に与えるって言うのとも違う。
自分を含めた「誰か」とシェアできるように、そのエネルギーは君に預けられてるんだよ。

エネルギー、でなくたっていい。才能や、性格や、容姿もそうかもしれない。
それは、有効に使うために君に持たされているんだ。


気がついてくれて、ありがとう。