アショカ王の法勅

 
アショカ王の名は、多分幼稚園からの卒業プレゼントの本の中で、知ったように思う。
信心深く、賢明な王さまなんだとあった。


つい先日、王の法勅の訳の一部を垣間見る機会があった。
(=えへへ、立ち読みってやつです…m(__)m…)

自分の信仰する宗教を「賞揚」し、他の宗教を「非難」してはいけない。
互いが、他の宗教をも「尊敬」しなさい。
そうすることで、自宗を「増進」させ、他宗をも「助ける」ことになる。
もしそうでなければ、結局は自宗を「そこね(害)」、他宗をも「そこね」る。
なぜなら、自宗への熱烈な信仰で「自宗のみを輝かす」ために、
自宗のみを「賞揚」し、他宗を手酷く「非難」することは、
結局は自宗を「そこね」ることになるのだ。


ありゃ?ぐるっと廻ってしまった?

ふむ、平たくいうと…
まずは、度量を広く持つのが前提で、「度量が広い」≠「上から目線」ってことでしょうか。
そして、正しい信仰のコアの部分は、みんな一緒なんですよね。

もちろん、自宗だけが正しいとし、
自宗に改宗することを強要し、
自宗を信仰しないものを排除
するのは、
実はそのコアの部分を、歴史の中で伝言中に、
誰かが意識的に、或いは無意識に上書きや、間違ったデコレーションをしてしまっている。(勝手に…)

実際、十字軍の殺戮と侵略がそうだ。
狂信的という意味では、ナチスも一種の宗教と言える。

日本も、明治になった時におかしなことになった。


もちろん、そうしてしまったのは、
いかに聡明だったとしても、まだ少年だった明治帝自身な訳はない。

ましてや、さきの昭和帝は自分のために命を捧げて欲しいなどとは、
毛ほども考えなかったのではないか。

昭和帝は、ご存知だったと思う。
自分は、日本の民を背に載せた親亀であることを。
民を支え護ってゆくのが、天皇と生まれた自分の、
天から任じられた使命であるのに…と、
だから、本当にお辛かったのではないか。


宗教はどこかで、権力を持ちたい一握りの輩たちによって、
ねじ曲げられ、利用されてきた歴史がある。

信仰で求められているのは、忠誠(絶対服従)でも、命を投げ出すことでもないし、
その宗教から見た他宗(または他国)を、殲滅する事でもない。

ただ、互いに手を執りあい、各々の持てる力を役立てあって、
物・心ともに、皆で豊かに暮らしてゆくことではないのか。