善知識、善知識魔のこと(その1)

 
随分前、亡くなられた鎌田茂雄さんの本で、文庫化されたのをよく読んでた。
今は、絶版したのか見かけない本もあるけど、
講談社学術文庫には、何冊も鎌田さんの著作が並んでた。


鎌田さんのご専門は華厳だったけど、仏教全般について、
さほどの専門的な知識がなくても読めるように、かみ砕いて書かれていたと思う。
そういえば、武蔵の五輪書もあったはず。

さて、華厳と言えば、奈良東大寺。あの桁外れな大仏(=ルシャナ)さんは、
細かいことはいちいち挙げつらわない、宇宙スケールの仏さま。
(挙げつらわないけど、悉くセンサーでは検出してる、バレバレ…)


中国ではこの華厳から、密教禅宗が生まれている、母体的な存在。

華厳経は、華厳のための経典というよりは、
ほとんど系統だてもなく、良さげな経典をかき集めたフシがあるらしい。

気が遠くなりそな、ボリュームがあるとのこと。
その華厳を研究していた鎌田さんって、視野の広い方だったんだろうな…


その華厳経のなかに、多分チラリと話を聞いたことがあるかもしれないけど、
「入法界品(にゅうほっかいぼん)」というのがある。


真実を求めて、善財童子という若いお兄ちゃんが、
真理を説いてくれる人(=善知識)を訪ね、53箇所を巡っていく。
因みに、東海道の五十三次の根拠は、この入法界品にあるんだとか。

ただこの旅は、常に導かれていて、1人の善知識を訪ねて教えを乞うと、
辞去するときに、善財童子が次に訪ねるべき先を、善知識から教えてくれる。
「どこそこに、なにがしという人がいる。そこで教えを乞うてご覧なさい」
「今は、わたし自身がわかっている範囲の、お話しをしたまでです」
(時には、「わたしには、わからないなぁ」という場合も…)
「だから、是非そこを訪ねて、その方のお話しをうかがってみなさい」
と…

あるいは善知識からではなく、道行く人に訊ねて、
次に訪ねる善知識を知るシーンもあったような記憶が…


善財童子が出会う善知識は、決して自分の語ったことが、唯一無二とは言ってない。

真実を求めて旅を続ける善財童子に、
更に探究を深めたいという彼の真摯な願い(もちろん彼は、一人一人に礼を尽くして、乞うています)を感じて、
まだ別の善知識を訪ねるようにと勧めてるんですね。


最初に訪ねたのが文殊菩薩さん、そして次々に訪ねる善知識は、
子供もいるし、仏教以外の修行者、そして遊女もいる。
別に、全ての善知識が仏教のエキスパートって訳ではなく、
日々を生きている人だったりする。

そして、文殊さんの説くことが尊く、遊女の説くことが尊くない、なんてことも全くない訳なの。
(因みに、この遊女は素晴らしい人なの!…善知識だから当然なんだけど)


善知識が善財童子に語って聞せることは、時にトリッキーに受けとれても、
宇宙レベルの観点から視れば、極普遍的なものなのだと、
わたしはそう思った。


さて、その善知識に「魔」がつくと、どういうことか…