善い行いをするのは、誰のため?

 
もちろん、善い行いをするのは、本来
「誰のため」というようなことではありませんが、
先日、良いお話を聴く機会があったので、書いてみますね。


お釈迦さまに、弟子が尋ねました。
「もしも、お釈迦さまがお亡くなりになった時には、
どのように供養いたしましたらよろしいでしょうか」

お釈迦さまは、答えます。
「香をたき、花を供えてくれるより、私が供養してほしいものは、善き行いだよ」

お釈迦さまの教えに従って、善き行いを重ねていって欲しい。
その功徳を供えものとして、供養してほしいものだな、と。


受け取りかたは、ひと様々だと思いますが、私はこんなふうに受け取りました。

「私がいなくなっても、教えたことを守って、修行していきなさいよ。」
「善き行いというのは、相手のためでも、ましてや自分のためでもないんだ。」
「でも、何か理由がいるのなら、私の供養のためだと思って、やりなさい。」
「弟子たちが修行を重ね、善き行いを重ねていってくれるのが、
私にとっての最高の供養なんだからね。」


お釈迦さまは、もちろん、その功徳を自分で使えるなんて、
これっぽっちも思ってはいません。

ただ、弟子たち限らず、皆に真理に目覚めて、本当の幸せなって欲しいだけ。


「お前たち自身の、ひとりひとりの善行による功徳を、
どうか、私に供養しておくれ…」

究極の方便ですね。かっこいいです。